生業と仕事

ほとんどの人生の時間を働くことに貢する。
生きるための働く時間と、世の中のために自分の時間を貢する「仕事」という時間の流れがある。
「自分が何のために生まれてきたのか」という設問は、一生の糸のように続く。
多くの人は、その設問をしていないか、考えることを諦めることが多い。
なぜなら、考えることより与えられるモノやサービスによる「楽」に気持ちが向いてしまいがちになるからである。

自分には何ができるのか、若い時にゆっくり考える時間の無いまま、社会の歯車となり働くが、なんともしっくりこなく3年程度で会社を辞める若者が多いのは、人間本来の働き方ができていないからだろう。
何のためにその会社に入ったのか。
ほとんどの大学生にとって、それがやりたい仕事ではなく、条件やスキルを得るというエゴ的な思惑が勝っているのではないか。それすら考えず、ただ時間を無駄に過ごすことに違和感もなく人生の旅をしているのは、自分にとっても社会にとっても損失でしかない。

「仕事」がほんの少し前の時代に「生業」と呼ばれていた頃、世の中はもっとゆるやかに動いていた。
グローバル化した社会の中で、「生業」がどんどん消え、「仕事」は大企業の歯車に成り下がることとなり、いかに給料をたくさんもらえるかが仕事の選択条件になってしまった。
大学を出てサラリーマンになるのがごく当たり前の社会では、起業家精神を持つことができない。起業家精神を養うのは、今の大学ではほとんど無理であろう。特別な才能を持つ人にとって、今の大学のスタイルは時代遅れと感じるのではないだろうか。

「仕事」は自分の生まれてきた意味を問い直す場である。
それはお金に囚われない。主婦の仕事、親としての仕事、あらゆる行動を意味づけできれば「仕事」と言える。一生をかけて自分の仕事をもつことは、幸せなことと言える。
年代とともにその中身は変化しつつも、その中心にある自分の心情をしっかりホールドできていれば、「生きる」意味を残せるだろう。

以前は大学で学べるのはごく限られた人であったはずが、今日ではほとんどの若者が進学して大学の「空気」の中にはいるが、果たして本気で何かを学びたいと思っているだろうか。
「生業」が中心だったころ、大学へ進むということは、一生の研究すべき目標に向かって突き進む人のみの場であった。
大学を出て職を探すことは、自分のエゴ的な小さな目標のための手段と成り下がっていることに後になって気づくことが多い。

これから日本がたどる道筋は、今までの成長の目標ではなく、いわば「成熟」の様な時間をたどるべきだろう。
仕事が小さなエゴの為でなく、大きなエコシステムを支えるものにならなければ、学びの意味も生きるという根本的な愉しさも手にすることはできない。

しかし、そのことに気づくための場、教育の場、仕事の場があまりにも少ない。
NPOやNGOという活動グループも、閉じた関係性の中で動いていたり、宗教も本来の意味を忘れ、その存続を目的としているケースも少なくない。

ところで、大きな経済システムを支えているのは「資本」であるが、根本的には「油」でしかない。
化石燃料の尽きる時、今の経済システムは成り立たない。
地球という大きなエコシステムの中の「資本」はお金ではなく、100%その中にある資源でしかない。
どんなに高度なものができても、このエコシステムを超えることはできない。

その単純な「学びの原点」を知らずして、宗教も教育も経済も成り立たない。
そのシステムの最大限の利用、いや「共生」こそが、たどるべき未来の姿である。

政治や経済を担っている人に、その自覚があるだろうか。
いや、自分自身にその自覚があるだろうか。
社会システムは進化しつつも、自然システムの「理」は変わらず続いている。
自分の生業をそこに同化することのみを目標とすれば、おのずと先が開けるのではないだろうか。

「教育」が存在するとするならば、そこにたどり着くことを意味づける「仕事」をつくり出すための準備期間としての期間を過ごす場でなければならない。

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