
自分に向けられた言葉
あるとき、私は人から「研究者ですね」と言われ、また別の人からは「表現者ですね」と評されたことがある。
けれど、自分ではまったくそう思っていなかった。むしろ、その評価をしてくれた人たちこそ、はるかに研究者であり、表現者だと感じていた。
ただ、私が建築という仕事をしているからこそ、そう見えたのかもしれない。建築は研究と表現が伴う仕事である。もしそこに「研究と表現」がなければ、ただの収入源に過ぎず、楽しさも半減してしまうだろう。
研究と表現に潜む矛盾
研究と表現には、常にお金の問題がつきまとう。研究者は研究をするために大学や研究機関に入り、そこでは施設や予算が必要になる。だが、多くの場合その成果は政治や経済に利用され、本人の純粋な思いとは違う形へと変質してしまう。
アインシュタインが晩年、自らの理論が戦争に使われたことを悔いたように。零戦を生み出した青年が「空を飛びたい」という夢を追った末に、数えきれない命を奪う結果となったように。
私たちは何を研究し、何を表現するのか。限られた時間=人生をどう使うのか。これは一人ひとりに課された問いだと思う。
農にある「生きるための研究」
40年以上前、工学博士の内藤正明さんは「すべての産業は農業の添えである」と論文を発表し、多くのお叱りを受けたとおっしゃっていた。だが、この言葉には深い真実がある。
農的な暮らしからすれば「いかに楽に農作物を得るか」が中心だ。高く売る農業でもなく、品種改良のための研究でもなく、もっと本質的な“生きるための研究”と“生き方の表現”がそこにある。
人類は針や糸をつくり、布を身にまとうまでに膨大な時間を費やした。その積み重ねの中に「研究」と「表現」があり、私たちはその遺伝子を受け継いで今を生きている。
忘れられた技術と新しい価値
効率や経済の流れに飲み込まれ、多くの技術は消えてきた。大工の刻みという工程がプレカットに取って代わられたように。けれど、人の手による達成感や楽しみという別の価値を見いだせば、それは新しい表現の形になる。
今の時代、キャンプやマラソン、登山など「非日常」に人が惹かれるのも同じ理由だと思う。私たちはお金ではなく、もっと根源的な喜びを求めているのだ。
誰もが持つ「研究」と「表現」
人は誰もが研究者であり、表現者である。その才能はすでに備わっている。
できない理由を探すより、できる方法を工夫する方がずっと豊かだ。私は自転車で世界を旅した中でそれを知った。
当時出会った国々の人の暮らしの中に、たくさんのヒントがあった。経済的に豊かでなくとも、食べ物や寝床を分け与えてくれる笑顔に触れるたび、人の本質的な力を感じた。
文明が何を生み、何を失わせてきたのか――。比較や批判ではなく、正直な心で世界と自分を見つめ直すこと。それ自体が研究であり、表現だと思う。
枠を超える生き方
医師の中村哲さんは、難民医療から農業土木へと活動を広げた。井戸を掘り、やがて大規模な運河を建設し、多くの人のための農地を生み出した。彼は医学という枠を超え、命を守るために「研究」と「表現」を重ねていった。
結局のところ、人生をどう生きるかは誰かと争うことではない。自分に与えられた時間をどう彩るかだ。苦しさを感じるとき、それは心のどこかに抗う気持ちがあるサインなのかもしれない。
日々の研究と表現
やり過ごすことも、時間に委ねることもできる。けれど、自分の心のキャパを広げることは、自分自身への研究であり、その表現は日々の行動として現れてくる。
人は本来、研究者であり表現者だ。そう生きることが、きっと人生を豊かにするのだと思う。