「愉しい」と「楽しい」は少しニュアンスが違う。
精一杯の動きの中から充実した時を感じるのが「愉しい」という感覚ではないだろうか。
仕事やハードなスポーツの中にも存在する。
「楽しい」のは人との会話や娯楽の中で発散する体が感じるもののように思える。
人生を愉しむには、やはり一本通った目標に向かうことでしかその心の境地には達せられないだろう。
そして少し無理をすることで、更に奥深い愉しさに巡り合える。
つい先日亡くなった八千草薫さんが残した言葉を、そのまま自分に当てはめて考えてみた。
少し無理はしているが、果たして愉しめているのかと。
何かに追われ気味であったり、様々な不安やジレンマの中で暮らしていて、すんなり愉しんでいるとは思えない。
ただ与えられた路線の上をゆくのではなく、どちらかというと開拓的な精神で動いているせいで、生活に「安心」はあまりない。
お金を稼ぐというより、やりたいことを見つけ、気の済むまでやるという、少し芸術家的なところで生きている。
熊野氏はそれを「貴方は表現者だ」といった。
どんな時代にも人は生きていて、それなりの工夫や人との繋がりの中で愉しく生きてきたからこそ、我々がいる。
生きている自分の責任は、後世につなぐ「何か」を見つけることではないか。
戦国時代の農民は何を考えて生きていたのだろう。
今も商戦争が身辺にある人たちが求めるものは、只々平和な社会なのではないだろうか。
とすれば、今我々が生きている日本社会は、彼らから見れば理想の社会なのである。
あらゆるところが安全でどこへ行っても飲む水の心配をすることはない。
あるとすれば、まだ見たこともない未来を心配したり、現状を不足に思うことで、自らの「力」を出し切れないでいることだ。
こころに想うことを愉しみとして現実にするのは、自分自身に対する誠意なのだ。
明らかにしなくてはならないのは、自分のこころの置きどころ、寄りどころであり、立場や職場という外的なものではないということだ。
ゆっくりと流れる時間を愉しむには、ひとりがいい。
しかし「独り」になってしまうと、流れる時間ではなく止まった時間になってしまう。
流れる時間は決して後戻りしない。
少しだけ無理をすることで、見えない壁の向こう側を見ようとするのは、愉しいではないか。
背伸びして見る壁の向こう側には、どんな暮らしがあるのだろう。
今を不足に思うのではなく、ただ壁の向こう側がどんな風なのか見てみたい。
まだ「お金」という壁を乗り越えられていない。
壁が高いのではなく、よく目を見開いていないに過ぎないかもしれない。
基礎体力としての人の感情や感性を、マルチに身に着けられる時代である。
明らかに内面的な強さや優しさが、必要な時代になっていくだろう。
「愉しむ」というのは意思そのものではないのか。
改めて教育の質が変化を求められている。
入力するより、出力できるものをたくさん持った方が更なる成功に近づける。