アイディアを形にする

長い間かかったが、私はようやく「本当にやりたいこと」に向き合っている。
アルメンデキテハはどう育ってゆくのだろう。
種はあっても、水や空気や湿度や土俵が無ければ育たない。

「キテハ」という種は「アイディア」として、今、手の内にはある。
それが種のままでは誰も食することはできない。
どうにかして床にまく必要がある。
そして育ってゆくための環境を整備する必要もある。

メディアへのアプローチや具体的なカリキュラムの作成もいる。
形にするにはかなりの労力を必要とするだろうが、前に向かって進めたい。

集中して考えることと、ただ何となく想像力を働かせイメージできる最大のことを組み合わせるために、誰かに相談出来たらいいのだがそうもいかない。
自分の中にあるアイディアは、自分で形にするしかアイディアの意味すらなくなってしまうからだ。

「やってみるしかない」のは分かっている。

どのステップでその場面に乗るのか、ある種の賭けでしかない。
少し無理をして高いハードルを飛ぶとき、失敗するかもしれないという不安よりも、走り出すタイミングをつかむかどうかの方がより難しく感じる。

アイディアが形になるとき、勢いや偶然が大きく作用する。
努力というより、成り行きや運を引き寄せることに慣れているかどうかで大きく結果が違ってくる。

アルメンデキテハのものがたりの主人公は、木や道具、技術の数々だ。
その主人公を支える人は、特別な人で無い方がむしろ自然に広がる。
組み合わせや、時間の使い方、特に技術に関しては、人から人への伝達ができる環境を整えることで、携わる人を増やすことができる。

アイディアを形にするのは「事業」ではない。
特に女性ができることを増やすことは、時代の変化に更なる要素を足すことになるだろう。
生活に必要なものを選び、自らが作り出せるというポジションに立つことである。
また不必要なものも同時に選択し、買わないか、捨てるか、通すか、も同時に進めることができるのは女性が得意とするところではないか。

コモディティ(商品)を増やすことが良しとされ続けてきた結果、今やあらゆるものが飽和状態である。
レジャーも施設へ行くのではなく、自分のアイディアでレジャーとして楽しめれば、お金もかけずクリエイティブな遊び方ができるのだが…。

「家を建てる」という大事業も、プロの少しばかりの応援を得て自分でできれば、なんとも言えない達成感やある程度の技術の習得がある。
自分の中のアイディアを形にするのは、やはり道具や器用さ、何よりそれに費やする時間がいる。

できないと思う気持ちの後ろには、いつもやらない理由を作る自分がいる。やれることは多い方がいい。
できないのはやりたくないだけである。

もちろん環境も大事である。
親が手を出しすぎる家庭は、ほとんどの子が自ら遊び方見出す方法を知らない。
人生全てが遊びの中にあるとしたら、それは楽しい。
ただし責任を取るということを忘れてはならない。
人は生きている以上、何らかの責任がある。
投げやりにならず、熱意をもって事に当たれば、アイディアは生まれ、いずれ形になるはずだ。

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