
作品と作家
ものづくりの世界には、作家タイプの人と、職人タイプの人がいる。
どちらも作品を世の中に残していくけれど、職人タイプの人には「作品」と呼べるものが少ない。
作家と呼ばれる人たちは、ある意味で生活には不必要なものを作りながら、その生き方の中に“表現”を置いている。
不必要の中にある美しさ
盆栽は今や世界語となり、その市場は1兆円とも言われる。一鉢1億円というものもあるらしい。
自然の樹を自分の思い通りの形にし、その一鉢を床の間に置く。
それは、生活という枠の中ではとても特別で、贅沢な行為だ。
けれど、不必要の中にこそ、美しさがある。
そして、人はそこに心の豊かさを見いだしてきた。
人生そのものが作品
ものづくりがいつもお金と結びついているように、生きることもまた、何かと制約の中にある。
でも思うのだ。人生そのものが作品ではないかと。
作家は自分であり、作品が人生だとする考えは、決して的外れではない。
心の自由が作品をつくる
心の自由を失った人生は、その作品に大きな影響を及ぼす。
自由人であれと言っているのではない。ただ、何事にも囚われずに生きることの難しさを、誰もがどこかで知っている。
生活の中にある小さな隙間も、追われるような時間も、どちらも自分の時間だ。
心の持ち方ひとつで、自由にも、不自由にもなる。
自分の評価は、自分が決める
子育てや仕事が一区切りして「やっと自由になりたい」と願うとき、人はようやく、自分で心の自由を閉じてきたことに気づく。
自由を奪うものが、外にあると思い込むうちは、作品としての人生に深い納得は訪れない。
評価とは、他人のものではない。
自分自身の満足であり、納得であり、自分の顔を見たときの“表情”そのものだ。
笑っていられるなら、それでいい。
どんなに小さな日々でも、それが自分の作品なのだから。
能力は自分のものではない
自分の持つ能力は、実は自分だけのものではない。
親方や先輩、社会の中で教わり、受け継いできたものだ。
それを「自分の力」だと思い込んでいるうちは、まだ本当の幸せは遠い。
自分の体も自然の一部であり、生かされていると感じられること。
それが、心の豊かさをつくる。
老いること、変わり続けること
作品としての自分は、心とともに変化していく。
どう生きてきたかがあらわれるのは、老齢期の人生かもしれない。
70歳も90歳も100歳も、それぞれが新しい章を生きている。人生に「これで終わり」はない。
最後に残るものが「感謝」
どれほど成功しても、自分の中心にある“何か”に気づかない限り、人としての成功は少ない。
自分とは誰か。何を残し、何を得たのか。
問い続けながら、今を精いっぱい生きていけばいい。
いつか訪れる”静”のとき、心に「感謝」が残っていたなら、それはきっと、良い人生だった証。
精いっぱい生きたことを証明できるのは、他の誰でもなく、自分自身だ。