
空しさ
空――。それは青く遠くどこまでも続く光のある空間である。
それがなぜ空しさという感情の字に使われるのであろう。
私はその空しさの正体を少しだけ掴んだことがある。
もう50年近く前。23歳の頃、海外の旅の果て、ガーナの海岸で一人海を見ていた時のことである。
3年近く旅を続け、帰りたいと思いながら辿り着いた場所。
もうこれ以上続けられないという残念感、無力感、帰れる安心感、脱力感が複雑に絡み合い、空しさの頂に達した。
今から思えば、それは一人旅という自分の作り出した条件の中で、何の結果も見つけられなかった焦りにも似た感情である。
誰からも責められないが、全て自分で決めて進むしかない。
23歳の人生経験は多くない。ふっと死がそばにあっても不思議ではなかった。
生きる意味を考え続けながら旅をしてきたが、常に死とも隣り合わせだった。
多くの人に出会い、涙が出るような景色に触れた。
しかし小さな自分は空しさに負けてしまいそうだった。
死にたいというより、死すら大して意味がないように思えた。
空しさが空に続くなど誰も思わないだろう。
だがその時、ずっと続く自分の人生が青い空につながっているような感覚が、ただなんとなく心に収まった。
確証など何もなかった。
今70歳になって思う。あの時の空しさは今も心の奥深くに残り、今の私を静かに動かしている。
空しくなることは今もある。しかしその正体は自分だと今はわかる。
空しさは説明するものではない。
一人一人の感性が空しさの中身を決めている。
私の空しさは人の空しさと似ていて、しかし非なるもの。
長く見れば違うようで、驚くほど似てもいる。
人の欲や命の時間は歴史の中では微々たるもので、そのわずかな違いが争いとなる。
空しさが消えないのは生きているからである。
大西洋の海岸で思ったのは、旅の思い出と自分の意志と、太古から続く波の音が重なったということだ。
ザバンザバンという繰り返す波が心を洗ってくれたのかもしれない。
すっきりしたわけではない。
考えても答えのないことを知っただけである。
空はソラともクウとも読む。クウは“無”にも通じる。
心が欲で満ちている時、空の青さにも星の美しさにも、人の温かさにも気づけない。
心を無にすることで、多くのものが有になる。
それは損得ではない。損得勘定こそ人間の弱さである。
弱さを超えた先に空や無の感情がある。
「人知を尽くし天命を待つ」
空しさに沈んでいるだけでは、そこに行動は生まれない。
空しいからこそ、空しさを超える術を探す。
そこに“人知を尽くす”という言葉が生まれる。
人は弱い。だから集団を作る。
だがその集団に耐えられなくなる人も多い。
自分が弱いと自覚できる人は、人の弱さも少しわかる。
真面目な人はその真面目さを自分の軸にしている。
それは確かさだが、時に生きづらさにもなる。
人生を研ぎ澄ますには対話がいる。自分との対話である。
空しさを感じつつも取り込みすぎず、おおらかに生きるために、対話が必要なのだ。
空しさの正体は一人一人違う形で現れる。
その人の価値観や経験から形成される。
私が大西洋で感じた空しさは、その後の人生を大きく変えた。
あの空しさこそ、私の原点である。
多くの人は空しさを避けて生きようとする。
だが楽しさは、空しさを避けることで遠ざかることもある。
何事もない方がいいが、その“何事”を超えた時にこそ愉快がある。
それが人生の妙味ではないか。
70歳になると多くの人が「残りの人生」と考える。
しかし視点を変えれば、これから始められることは山ほどある。
それも今まで積み上げてきた自分と一緒だ。心強いではないか。
チャレンジは、今あるものを捨てることではない。
積み上げてきたものを壊しても成功はない。
空しさから逃げるために周囲に甘え、気ままを正当化しても何も生まれない。
空しさは振り払おうとするほど大きくなる。
誰かが与えるのではなく、自分の心が掴んでいるだけだ。
少しのチャレンジが失敗し、さらなる空しさに襲われることもある。
私はもう一度一人旅をしたいとは思わない。
それは旅が嫌なのではない。
旅で味わった感情に向き合い、それを実現していく今の方が楽しいからだ。
あの頃の考えを今の時代に照らし合わせ、どんな未来がいいのかを考え続ける。
その原点がガーナの空しさにある。
“多くを語るな、多くを行え”
この言葉も空しさの中から湧いてきた自分へのエールである。
空しさは感情や思考の外側を柔らかく包むベールのようなもの。
オブラートのように薄ければ、人の思考にもアクセスできる。
しかし厚い段ボールや鉄のような思考では、内側は暗く、成長しない。
頭が固いとか柔らかいとは、空しさを自分の一部として容認できるかどうかでもあると思う。
何をどう頑張っても、いずれ死ぬ。
だから頑張るのか、そうではないのか。
空しさの中心に“精一杯やった”という自負はあまりない。
それは死の時に持てばいい。
生きるというのは、何かをやり遂げることだけではない。
“何か”という曖昧なものを支えにすると、空しさは大きくなる。
自分と正面から向き合うだけで、少々の空しさは吹き飛んでしまう。
泣き言や愚痴や社会への抵抗は、自分と向き合う不足から生まれる。
強くないなら能力を磨き、思考を凝らして強くなればいい。
弱い自分とは人との比較ではなく、やる気を失う自分のことだ。
空しさのベールに包まれた人生は、弱い自分と向き合うからこそ生まれる“心のしわ”のようなもの。
赤ちゃんと老人の肌が違うように、
空しさや悲しさ、嬉しさや楽しさが刻んだしわが人をつくる。
パソコンしか使わない手と、厚みのあるごつごつした手。
それは生きてきた証であり、人としての厚みである。
人生の空しさは、生きている限りつきものだ。
空しさは虚しさとも書く。
青い空の下で、いつか空へ帰るその日まで笑って生きればいい。
虚しい時、下を向き、うなだれ、気力がなくなる。
そんな時は、海を見て、空を見て、星を見て泣いてもいい。
でも未来を見続けた時、人生に深みが出る。
空しさを友達にすればいい。
いつも隣にいると思えば怖くない。
強くなくていい。弱いからこそ強くなろうとする自分がいるのだから。
